差間・木曽呂周辺o散歩
JR武蔵野線を行くプチ・トレッキング
JR・SR東川口駅から、貨物列車も通る武蔵野線に沿って進み、東北自動車道をくぐると、差間ふれあいの道へ。見沼の自然を満喫しながら、その先には、この地の先人たちが江戸の暮らしを支えたポイントがいくつも。大規模な干拓農地・見沼田んぼ、遥か利根川から農業用水を引いた見沼代用水、農産物を江戸に送るための知恵・見沼通船堀。元禄時代から食文化を彩ってきた、武州浜防風(ぶしゅうはまぼうふう)・木の芽(きのめ)・矢生姜(やしょうが)などの粋な食材とその栽培技術。遠い過去に思いを馳せながら、自然いっぱいのトレッキングが楽しめます。
(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
写真撮影:川口銀座商店街(振)/まちづくりパートナーシップ勉強会
ボウフウ
■元禄の頃から、木曽呂・東内野地区で栽培され、料理に彩を添えるツマとして料亭などで珍重されています。京浜市場の9割以上が川口産。栽培法、束ね方にも代々受け継がれた技術が・・・。差間小学校が「ボウフウ」、木曾呂小学校が「サンショウの木の芽」をデザインした校章にしています。
(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
差間ふれあいの道
■差間中央公園(差間1-13)を中間点として、北原台公園(北原台3-23)と東沼神社(差間2-15-45)下の浅間橋をL字に結ぶ遊歩道。ツツジの植え込みやタイサンボク、ケヤキなどの緑陰の小径です。差間中央公園の枝垂れザクラは見事。
(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
川口自然公園(差間1355)
■田んぼや植木の畑が続く見沼田んぼの一角に、自然と親しめるようにと昭和63年(1988年)に作られました。園内は、見沼に生息する生き物を間近で観察できる散策路が巡らされ、水辺に集まるトンボやチョウ、ホタルやクワガタ、カブトムシも見られます。風に乗って聞こえるヒバリやヨシキリなど、野鳥のさえずりがなんとものどか。池周辺は釣り人や、ザリガニとりを楽しむ子どもたちでにぎわいます。
(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
木洩れ日の道(東内野地内)
■竹林の斜面を整備した地域自慢の水辺の道。木洩れ日を受け、笹の葉音や小川のせせらぎに耳を傾けながら、さわやかな散歩が楽しめます。初夏に斜面一帯を彩るアジサイも見事。
(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
木曽呂の富士塚(大字東内野594)
■江戸の頃、日本一高い富士山は信仰の対象であり、多くの人々が富士登山の旅に出かけました。そこで、本当の富士山に登れない人のためにと、ミニ富士山が各地にできました。木曽呂の富士塚もその一つで、県内では最も古く、国指定史跡となっています。富士塚に登るには、小さな鳥居の左側、20段ほどの階段を利用します。頂上には火口に見立てた窪みがあり、一周するお鉢巡りは昔から人気でした。塚をくり貫いた胎内くぐりの穴もあったそうで、さぞや行列ができたのでは。平成18年、ライフワークの水運研究で皇太子様(当時)が立ち寄られたことを記念して、殿下のお印である「梓(学名ミズメ)」の幼木が塚の麓に植樹されています。 (川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
■木曽呂の富士塚)
国指定 重要有形民俗文化財 年代:江戸時代
木曽呂の富士塚は、地元で「ふじやま」・「木曽呂浅間」と称され、寛政12年(1800)に富士講の一派である丸参講の信者である蓮見知重の発願により見沼代用水東縁と見沼通船堀の連絡点の崖上に築造されたものです。現存する県内最古の富士塚です。高さ(盛土部)5.4m、直径20mを測り、塚全体が盛土で築かれており、火口・お中道・胎内めぐりの穴などが設置され、富士講築造の富士塚としては県内最古のものです。
(川口市立文化財センターHPより)
■木曽呂の富士塚)
国指定 重要有形民俗文化財 年代:江戸時代
木曽呂の富士塚は、地元で「ふじやま」・「木曽呂浅間」と称され、寛政12年(1800)に富士講の一派である丸参講の信者である蓮見知重の発願により見沼代用水東縁と見沼通船堀の連絡点の崖上に築造されたものです。現存する県内最古の富士塚です。高さ(盛土部)5.4m、直径20mを測り、塚全体が盛土で築かれており、火口・お中道・胎内めぐりの穴などが設置され、富士講築造の富士塚としては県内最古のものです。
(川口市立文化財センターHPより)
下山口新田稲荷社(さいたま市緑区下山口新田17)
■本殿内には稲荷大明神像のほかに、勧請の添簡も残されており、それには、寛政三年(1791)初春吉辰に関平八・沼口以兵衛両名をはじめとした氏子中の願いにより、京都伏見大社から正一位稲荷大明神を分霊することの許しを受けた旨が記されている。当地が悪水の集まり易い土地であったため、その開発が難航を極めたことから、ようやく農作も安定し始めたと思われる同年に村の繁栄を願い奉斎したものであろう。『風土記稿』に「稲荷社 鎮守なり、村民の持、地蔵堂」と載り、やがて明治六年に村社に列した。
(境内:御由緒より)
八丁堤(さいたま市緑区大間木・下山口新田・川口市東内野
■寛永6年(1629年)、幕府代官(関東群代)・伊奈忠治によって大宮台地の支台最も狭まった位置に8町(約900m)の長さをもつ締切堤が築かれ、見沼溜井(深さ1m~3mのダム)が造成されます。八丁堤(八町堤)と称されるこの堤によって見沼が区切られたことで、木曽呂等の八丁堤以南の湿地帯は干拓され、また堤の両側からは溜井の東縁・西縁の用水路が引かれ、市域の新田開発が大きく進展しました。
大間木水神社(さいたま市緑区大字大間木字八丁2395)
■水神社は、見沼通船堀が開通した翌年の享保十七年(1732)六月の創建と伝わります。祭神は水の神である罔象姫命をお祀りしています。享保十六年、井沢弥惣兵衛為永によって開さくされた見沼通船堀が開通し、江戸と見沼代用水路縁辺の村々との物資輸送が可能になりました。船は、代用水路縁辺の河岸で荷物(江戸時代においては年貢米が主でした)を積んで江戸へ行き、帰りは肥料、塩、酒などの商品を積んできました。荷物の積みおろしをする河岸場は、芝川と東西の用水路沿いに59か所あり、ここ八丁にも河岸場ありました。八丁河岸周辺には、河川輸送に携わる人たちが住んでおり、水神社は、そのような仕事につく人たちが水難防止を祈願して祀ったものです。(さいたま市:水神社の説明板より)
鈴木家住宅(さいたま市緑区大字大間木1889)
■国指定史跡見沼通船堀には、通船差配役であった鈴木家の住宅が指定地に含まれています。鈴木家は、幕府から見沼通船堀の差配(各船に対する積荷や船頭の割り振りなど船割りを行う業務)役を命じられていました。文政年間(1818年から1830年)以降は、差配を執り行う事務所(八丁会所)に出向いて差配にあたり、住まいも江戸から現地に移しました。現在残る鈴木家の建物(母屋・米倉・その他の建造物)は、その頃に建てられたと考えられています。 (さいたま市HPより)
八丁観音堂/大聖不動尊(さいたま市緑区大間木1907)
大間木稲荷社(さいたま市緑区大字大間木字宮前1391)
■当社のの鎮座する八丁は、この見沼通船の会所が設けられ、重要な荷揚げ場となっていた所で、船頭など舟運にかかわる人々も多く居住し、まさに見沼通船の基地であった。「明細帳」には、当社の由緒について「創立享保十六亥年九月其他不詳」と記されているが、この創立年から、当社は、見沼干拓による新田開発に伴ってこの地に住み着いた人々が勧請した神社であると思われ、本殿には勧請の際に受けた神璽などを納めていたものらしき筥が残っている。 (御由緒より抜粋)
附島氷川女体社(さいたま市緑区大字大間木1522)
■八丁堤の赤山街道大宮道沿いにひっそりたたずむ神社です。本殿はさいたま市指定の有形文化財となっています。 (さいたま市HP)
見沼通船堀公園(さいたま市緑区大字大間木1506)
■享保16年(1731年)に開通した、我が国最古といわれる閘門式運河、見沼通船堀のある公園です。竹林に囲まれた雰囲気のある公園です。 (さいたま公園ナビHPより)
見沼通船堀 さいたま市緑区大間木・下山口新田・川口市東内野
■芝川を経由し見沼代用水東縁・西縁の間をつないだ運河。高低差3mを、巨大な板でせき止め、3段の堰の水位差を調整して船を運行させました。同じ方式のパナマ運河よりも180年も前に完成。米や農産物が江戸へ、江戸からは肥料や塩が運ばれました。そばの古民家は、代々水運業に関わってきた鈴木家。
(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
■見沼通船堀
国指定 史跡 年代:江戸時代
見沼通船堀は、井沢弥惣兵衛為永により、享保16年(1731)に東西の見沼代用水と芝川を結んでつくられた我が国最古の閘門式運河です。この運河の完成により見沼田圃が造成され、付近は豊かな農村へと変貌を遂げました。東端の台地に築かれた木曽呂の富士塚は、富士信仰の遺産であるとともに、通船堀の恩恵を受けた文化遺産でもあります。
(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
■見沼通船堀
国指定 史跡 年代:江戸時代
見沼通船堀は、井沢弥惣兵衛為永により、享保16年(1731)に東西の見沼代用水と芝川を結んでつくられた我が国最古の閘門式運河です。この運河の完成により見沼田圃が造成され、付近は豊かな農村へと変貌を遂げました。東端の台地に築かれた木曽呂の富士塚は、富士信仰の遺産であるとともに、通船堀の恩恵を受けた文化遺産でもあります。
大間木氷川神社(さいたま市緑区東浦和5-20-2)
■本殿はさいたま市指定有形文化財です。江戸時代寛文7年(1667年)に大宮氷川神社が本殿を建て替えた際、その旧本殿を買い請けたと伝えられます。
氷川女體神社(さいたま市緑区宮本2-17-1)※旧郷社
■見沼田んぼを見下ろす高台に立つ古社。現在の社殿は、寛文7年(1667)に造営されています。氷川神社、氷川女體神社、中山神社の三社は一直線上にあり、かつ御祭神がそれぞれ素戔嗚尊(すさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)で「夫・妻・子」の関係にあることから、この三つの神社は「三社一体」の関係にあるとされています。氷川女體神社は、見沼の信仰のルーツを知る上で大変重要な社と考えられており、多くの文化財があります。
■氷川女體神社社殿
埼玉県指定 有形文化財 時代:江戸時代
武藏国一宮。社殿は、本殿と拝殿を幣殿でつなぐ複合社殿。本殿は江戸時代寛文7年(1667年)、三間社流造、こけら葺(現銅板葺き)、桁行3.465メートル、梁2.260メートル、向拝の出1.364メートル。拝殿は江戸時代中頃、入母屋造、桁行9.450メートル、梁間4.560メートル。 (さいたま市HPより)
■氷川女體神社社叢
さいたま市指定 天然記念物
モチノキ・シラカシ・タブノキ・サカキ・ヒサカキ・ツバキ・シイ・ネズミモチ・シロダモ・チョウジカズラ等の暖地性の常緑広葉樹林がよく発達している自然林です。
(さいたま市HPより)
見沼氷川公園(さいたま市緑区大字見沼地内)
■見沼氷川公園は氷川女體神社の南側に作られた公園です。園内には中央にある芝生広場を中心にビオトープやハーブ園、遊歩道などが整備されています。公園のある地域は唱歌「案山子」の発祥地といわれていることから、「案山子」の記念碑が公園入口に設置されています。また、地域でも有数の桜の名所として知られ、春になると園内に植えられている約100本もの桜がきれいに咲き誇ります。のんびりと自然の中で過ごすのに最適な公園です。
見沼代用水西縁
■見沼代用水は、利根川から取水し、綾瀬川を越えた直後に台地の縁に沿って東西2本に分流します。西側の台地に沿って掘削された 見沼代用水西縁 みぬまだいようすいにしべり (全長約22km)と、東側の台地に沿って掘削された 見沼代用水東縁 みぬまだいようすいひがしべり (全長約16km)です。 見沼代用水は干拓して開発した水田に水を入れたのち、低地を流れる芝川に排水する仕組みをとりました。この工事により見沼新田だけでなく、その周囲も含む、多くの村に用水を供給することができるようになりました。
柳崎氷川神社(柳崎5-20-1)※旧柳崎村の鎮守
■御縁起(歴史)
柳崎は八木崎とも書き、見沼に突き出た台地上にある。戦国期に見える地名で、永禄七年(1564)の太田氏資判物写に「柳崎之内原分」とある。更に『風土記稿』によれば、元は大谷口、井沼方、中尾、柳崎の四カ所で一村をなしていたといい、元禄年間(1688~1704)のころに分村したとされる。本社である武蔵国一宮氷川神社は、正保期の古図を見ると、広大な見沼を望む高鼻と呼ばれる高台の鬱蒼たる杜の中に鎮座しており、当社もこれに倣って見沼を望む台地上に祀られたものであろう。 (御由緒より抜粋)
■柳崎氷川神社本殿
川口市指定 有形文化財 建造物 年代:江戸度時代
簡素な見世棚造りで、装飾及び技法に簡素を意匠とする特徴が見られます。丸桁、棟木の舟肘木は、一木より造りだしです。木階は七段と多く、この地方の木階の見世棚造としては珍しいものです。
※ この文化財は、一般公開は行っておりません。 (川口市立文化財センターHPより)
六ヶ村調節堰(柳崎4丁目)
■六ヶ村調節堰は、さいたま市緑区から川口市へと流れる見沼代用水西縁を六ヶ村用水へと分流する水門です。六ヶ村用水は下流で緑川につながり竪川と交差合流します。さらに竪川樋門で芝川と合流し、下流の芝川水門を抜け荒川(荒川放水路)へと注ぎます。
観音院(柳崎4-11-30)
■足立観音霊場七番札所。見沼代用水西縁が六ヶ村用水と分流する六ヶ村調節堰西の斜面にあるお寺です。春には境内の桜と見沼代用水西縁の桜並木が重なり合い見事です。