元郷・領家周辺o散歩
工場跡地に建つ超高層マンションと流れを取り戻す旧芝川
南平(なんぺい)地区は、昭和初期まで南平柳村(みなみひらやなぎむら)だったことから付けられた地区名で、室町時代に一帯の領主だった平柳蔵人(ひらやなぎくらんど)の名に由来。平柳蔵人の居館跡のほか、ゆかりの寺社もコース内に点在します。元郷は少し前までエンジン鋳造など大規模な鋳物工場が立ち並んだ地域で、その跡地に今はマンション群が・・・・その代表格がエルザタワー55。また味噌醸造も盛んな場所でした。そうした産業の水運に利用された旧芝川には遊歩道が整備され、心を和ませてくれます。足を延ばし、「旧田中家住宅」も立ち寄りたいポイントです。
(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
写真撮影:川口銀座商店街(振)/まちづくりパートナーシップ勉強会
朝日氷川神社(川口市朝日1-3-15)
■創建は約500年前。大正12年、関東大震災で社殿が倒壊するも、昭和13年7月に再建。その後、老朽化した建物のすべてを「平成の大造営」と称し、氏子の創意を以って平成15年5月に新社殿・社務所が完成されました。隣には整備された公園で大人たちがジョギングをし、子供たちがボール遊びに興じ、明るい声が絶え間なく聞こえる静かな川口の住宅地にたたずみ、地域の守護をお祈りしています。 (朝日氷川神社様HPより)外部リンク
薬林寺(朝日1-4-33)
■寺の周囲はお薬師さんにふさわしい清楚な白壁がめぐらされています。川口三薬師の一つ「岡の薬師」と呼ばれる薬師堂があり、薬師瑠璃光如来、日光、月光両菩薩などを安置。そばの観音堂には十一面観世音菩薩立像があり、こちらは通称「薬林寺の首振り観音」といわれています。 (川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
旧田中家住宅/川口市立文化財センター分館(末広1-7-2)
■特徴あるレンガ造りの洋館を中心に、文庫蔵・茶室を備えた和館・日本庭園などを配する大正期の建物。江戸末期から明治にかけて味噌醸造業や材木商で財を成した田中家では、長男が代々徳兵衛を襲名し、この邸宅は4代目田中徳兵衛氏が大正10年(1921)から3年間かけて建設。洋館はレンガ造りの3階建て、最上階に尖塔アーチ窓を置き、16世紀イギリスのチューダー・ゴシック様式が用いられています。1階は商家らしく帳場や応接間などがあり、各部には手の込んだ細工も。2階は主人の書斎。イオニア式といわれる柱など格式の高さを思わせます。洋館東側には数寄屋造りの迎賓施設が増設され、当時貴族院議員だった4代目が来賓を招きフォーマルな行事を行う場としたと思われます。国登録有形文化財。川口市立文化財センター分館として公開中。
(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
■洋館)
国指定 重要文化財 年代:大正時代
大正10年(1921)着工、同12年竣工の煉瓦造り3階建て、ルネッサンス様式の流れをくむ大正時代の本格的洋風住宅で、北側に蔵棟、南に台所を配しています。 4代目田中徳兵衞が迎賓施設として建設し、設計者は左立七次郎の下で西洋建築を習得した櫻井忍夫で、多くの地元職人が建設に携わりました。田中家は代々味噌醸造業と材木商を営んでおり、素封家としての暮らしぶりを今に伝える貴重な文化遺産です。
■煉瓦塀)
国指定 重要文化財 年代:大正時代
敷地西辺中央部の鉄柵の北方、南方及び敷地南辺を練瓦塀が煉瓦塀で、北方練瓦塀の2ヶ所、南方に1ヶ所の通用門を開き、北方の鉄門寄りの通用門にはアーチを架けています。洋館と同時期の建設で、敷地西辺と南辺の景観を整えています。
■文庫蔵)
国指定 重要文化財 年代:明治時代
洋館蔵部の北方に東西棟で建つ、桁行6間、梁間5間規模、切妻造り、桟瓦葺の土塀造平屋建です。内部は2列4本の柱を建て、二重梁を架け、外は目地付きの外壁とし、軒廻りは漆喰塗で屋敷構えを構成しています。
■和館)
国指定 重要文化財 年代:昭和時代
昭和9年(1934)に洋館の東側に増築した、木造一部2階建ての寄せ棟屋根を載せた数寄屋造りの建物です。和風による迎賓のための施設として使用されました。設計監督は櫻井忍夫の事務所を継承した府馬陽二が行いました。1階は10畳の仏間、12畳半の次の間、大床をもつ15畳の座敷を並べ、2階は、8畳の床付き座敷と4畳の次の間を配しています。
国指定 重要文化財 年代:大正時代
大正10年(1921)着工、同12年竣工の煉瓦造り3階建て、ルネッサンス様式の流れをくむ大正時代の本格的洋風住宅で、北側に蔵棟、南に台所を配しています。 4代目田中徳兵衞が迎賓施設として建設し、設計者は左立七次郎の下で西洋建築を習得した櫻井忍夫で、多くの地元職人が建設に携わりました。田中家は代々味噌醸造業と材木商を営んでおり、素封家としての暮らしぶりを今に伝える貴重な文化遺産です。
■煉瓦塀)
国指定 重要文化財 年代:大正時代
敷地西辺中央部の鉄柵の北方、南方及び敷地南辺を練瓦塀が煉瓦塀で、北方練瓦塀の2ヶ所、南方に1ヶ所の通用門を開き、北方の鉄門寄りの通用門にはアーチを架けています。洋館と同時期の建設で、敷地西辺と南辺の景観を整えています。
■文庫蔵)
国指定 重要文化財 年代:明治時代
洋館蔵部の北方に東西棟で建つ、桁行6間、梁間5間規模、切妻造り、桟瓦葺の土塀造平屋建です。内部は2列4本の柱を建て、二重梁を架け、外は目地付きの外壁とし、軒廻りは漆喰塗で屋敷構えを構成しています。
■和館)
国指定 重要文化財 年代:昭和時代
昭和9年(1934)に洋館の東側に増築した、木造一部2階建ての寄せ棟屋根を載せた数寄屋造りの建物です。和風による迎賓のための施設として使用されました。設計監督は櫻井忍夫の事務所を継承した府馬陽二が行いました。1階は10畳の仏間、12畳半の次の間、大床をもつ15畳の座敷を並べ、2階は、8畳の床付き座敷と4畳の次の間を配しています。
SR川口元郷駅(元郷1-2-15)
■平成13年に開業した地下鉄の駅ですが、1日の利用者数は約1万4千人。駅前は、JR川口駅へ続く道をはさみバスターミナルと芝川公園が広い空間をつくり、開業時に植えられた安行桜の並木も立派に育っています。駅の背後の旧芝川は、埼玉高速鉄道線のトンネルを利用して荒川の水を注ぐことで水質が改善され、大きな真鯉が泳ぐ姿が見られます。駅構内にある元郷の歴史と鋳物の製造工程を描いたレリーフも見ものです。
(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
さくら橋(本町2-12)
■埼玉高速鉄道 川口元郷駅から、ショッピングセンター「ミエルかわぐち」方面に隣接する橋。名前の通り、春には近辺で「安行寒桜」や「染井吉野」等が楽しめます。
芝川公園(元郷1-2)
■川口元郷駅前にある公園。周りを取り囲むように「ソメイヨシノ」が植えられ、桜の季節にはかっこうの花見スポットに。毎年4月には、端午の節句に合わせて「鯉のぼり祭り」が行われます。大きな鯉のぼりが上空を泳ぐ光景は、見ごたえがあります。
(川口市:川口市内観光ルートマップより)
■芝川公園周辺街路の「安行桜」並木は3月上旬から中旬にかけて見頃をむかえ、ところどころに「枝垂桜」も見受けられます。商店街と芝川公園エリアでは三種類の桜が「安行桜」、「ソメイヨシノ」、「枝垂桜」の順に咲き乱れ、旧芝川に彩を添えます。
■芝川公園周辺街路の「安行桜」並木は3月上旬から中旬にかけて見頃をむかえ、ところどころに「枝垂桜」も見受けられます。商店街と芝川公園エリアでは三種類の桜が「安行桜」、「ソメイヨシノ」、「枝垂桜」の順に咲き乱れ、旧芝川に彩を添えます。
(本栄商店街振興組合)
元郷圦ノ口(いりのくち)庚申塔(元郷1丁目)
■文政11 年(1828)に元郷村の芝川堤に建立された庚申塔の道標。「東舎〔人〕」と刻まれており、剥落が多いものの痕跡から西は戸田、南は千住であると推測されます。
(川口市立文化財センター分館 郷土資料館:母なる芝川より)
(川口市立文化財センター分館 郷土資料館:母なる芝川より)
門樋橋(旧芝川)
■江戸幕府が開かれてから100年余りが経過すると、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の手により様々な改革が実施されました。享保の改革のなかで現川口市域周辺の村々に最も影響を与えたのが、享保 12年(1727)に幕府の財政再建を目的として着工された勘定吟味役・井澤 弥惣兵衛 による見沼新田の開発です。
享保16年(1731)荒川の洪水が逆流するのを防ぎ、水量の調節が可能となる治水上の目的から芝川と荒川堤防との間には、初めて門樋(水門)が設置されました。このように享保期の芝川は、排水路と舟運路としての役割を併せ持つ河川として大改修が施されま
した。
■門樋橋付近の水辺で見かけた植物
・クワの木・アカメガシワ・アオギリ・ハゼ・クルメツツジ・ヒガンバナ・ヘクソカズラ
■門樋橋付近の水辺で見かけた生き物
・カワセミ・オオバン・モズ・コガモ・ショウビタキ・ヒドリガモ・キジバト・モグラ
・ハクセキレイ・モグラ・コサギ・ムクドリ・スズメ・ヒヨドリ・ドバト
■芝川人道橋付近の水辺で見かけた植物
・アシ
■芝川人道橋付近の水辺で見かけた生き物
・ショウビタキ・ハシボソガラス・ヒヨドリ・ハクセキレイ・カワセミ・コサギ・カルガモ
・モズ・モグラ・オオバン・ムクドリ・ミシシッピアカミミガメ・スズメ・バン・アオジ
・ナナホシテントウ・チョウゲンボウ (荒川夢クラブ「旧芝川の水辺」より)
芝川排水機場(本町1-19)
■旧芝川が増水したときに、水をポンプで荒川に配水するための施設です。
元郷排水ポンプ場(元郷2-3-51)
■旧芝川に流入する雨水を荒川に放流し、水位を維持するための施設です。
正覚寺(元郷3-1-14)
■門前通りに随泉寺と並んで建ちます。戦国時代に当時の元郷領主平柳蔵人高綱(蔵人は官職名)が一族の菩提を弔うために創建し、さらに地元農民のためにと天神社と稲荷社を祀りました。江戸時代の安政の大地震と大正時代の関東大震災で二度倒壊していますが、そのつど再建、昭和50年(1975年)にも修復されました。山門を入りすぐ左の聖観音は一木彫りの木造。天明2年(1782年)の浅間山大噴火と荒川大洪水により流れ着いたといわれます。武州川口七福神の一つ、布袋尊も祀られています。本尊は釈迦如来。曹洞宗。
(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
■武州川口七福神 布袋尊
随泉寺(元郷3-4-17)北足立八十八ケ所霊場35番
■山門は実に立派。境内にはさまざまな石仏が祀られ、四国八十八カ所霊場お砂踏みもあります。毎月御詠歌の会を開いたり、寺のマスコットを人気投票で決めるなど、新しい寺のあり方を模索中です。真言宗智山派の寺院で本尊は阿弥陀如来。
(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
仙元橋(旧芝川)
■旧芝川の仙元橋辺りからは水辺に下りることができ、ゆったり歩ける遊歩道が続きます。野鳥の姿も見られ、土手に咲く花に季節を感じながらの散歩は工場地帯とは思えません。欄干や街灯に工夫を凝らした橋のデザインにも注目。平成元年の国土交通省「手作り郷土(ふるさと)賞」の「生活の中にいきる水辺30選」に選ばれています。
(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
■仙元橋付近の水辺で見かけた植物
・ヒガンバナ・クワの木・アシ
■仙元橋付近の水辺で見かけた生き物
・ハシボソガラス・オオバン・カワウ・コイ・コサギ・スズメ・ドバト・モズ・アオジ
・チョウゲンボウ・ジョウビタキ・ミシシッピアカミミガメ
(荒川夢クラブ「旧芝川の水辺」より)
梛木の橋(旧芝川)
「梛木の橋」”なぎのはし”と読みます。
この橋の近くにある「川口市立領家中学校」の校歌にも"梛木の原"と歌詞に使われていますが、梛木は古くから苦難を「なぎ払う」として信仰されていたり、また葉が裂けにくい事から縁が切れないとして「縁結び」などのお守りとして使われていたようです。
■梛木の橋付近の水辺で見かけた植物
・キカラスウリ・アシ・ビロードモウズイカ・ランタナ・ウチワサボテン・ガマ
■梛木の橋付近の水辺で見かけた生き物
・コイ・カルガモ・ハクセキレイ・キンクロハジロ・モズ・オオバン・カイツブリ・カワウ
・ヒドリガモ・バン・アオサギ・コサギ・カワセミ・ショウビタキ・クサガメ・コガモ
・シジュウカラ・ヒヨドリ (荒川夢クラブ「芝川の水辺」より)
榎木橋(旧芝川)
榎木橋の近くは工場や倉庫等が多く立ち並んでいますが、橋の下では釣りを楽しむ人がいたり、ヒドリガモやオオバン、カワセミ、ヒヨドリやアオサギ等の鳥たちの憩いの場にもなっているようです。
■榎木橋付近の水辺で見かけた植物
・アシ・キカラスウリ
■榎木橋付近の水辺で見かけた生き物
・カワウ・コサギ・クチボソ・ヘラブナ・ヒドリガモ・ハシボソガラス・ショウビタキ
・オオバン・スズメ・カワセミ・カルガモ・バン・キジバト・ボラ・アオサギ・ヒヨドリ
・ドバト・チョウゲンボウ・コイ・キンクロハジロ(荒川夢クラブ「芝川の水辺」より)
川口フットサル場(河原町地内)
■川口市の南端、河原町にあるフットサル場です。荒川と新芝川の合流地点にある芝川水門のすぐ北側にあり、透水性弾性舗装が施された20m×40mのフットサルコートが2面あり、水道やトイレも整備されています。屋根など日よけがないため、天気のいい日は日よけ対策が必要です。近隣でも有数のフットサルコートとして近隣のフットサルチームなどに利用されています。河川敷で開放感のある場所で、芝川サイクリングロードの起点も近いなどサイクリングや散策にも便利なところです。駐車場は、約32台分用意されています。
領家水門(領家4-9-10)
■昭和14年(1939)、芝川の流れを川口の中心から迂回させる芝川放水路の開削が計画されます。工事は戦前から着手され、戦時中に中断するとしばらく進捗はありませんでしたが、昭和33年9月に襲った狩野川台風(台風22号)が転機となりました。
昭和33年の大洪水は、明治43年(1910)以来の甚大な被害をもたらし、500余りの鋳物工場をふくめた市内の90%以上を浸水させ、浸水家屋2万9,256戸、罹災者13万8,000人、被災額3億3,370万円を計上し、被災者からは芝川放水路が完成していればと悔やむ声が上がりした。
この後、放水路の工事は本格的に再開され、昭和40年(1956)に領家水門が通水、ここに工事期間10年と20
億7,000万円を費やした新芝川(芝川放水路)が完成しました。
芝川水門碑/川口市立芝中学校書道部 拓本採り
■国土交通省の新芝川排水機場(川口市)にある「芝川水門碑」は碑陽が漢文のために読めず、拓本の形でも残っていないため、石碑設置の経緯が詳しく判明しておらず、多くの“謎”に包まれていました。平成27年(2015)11月に国土交通省荒川下流河川事務所(北区志茂五丁目 岩淵水門近く)は、“川口市・拓本”でWeb検索し、その結果「川口市立芝中学校」のホームページで『書道部の拓本採り』がヒットしたため、「芝川水門碑」の"謎"の解明に向け、協力依頼を呼びかけました。川口市立芝中学校書道部は、国土交通省荒川下流河川事務所の担当者と共に現地調査や石碑洗浄等の作業を行い、平成28年(2016)3月12日(土)に第1回拓本採りを行いました。石碑は高さ約3.4メートル。石碑に水を掛けて和紙を貼り、墨をつけたタンポでたたいて文字を写し採りました。同事務所によると、「石碑は大正13年(1924)に芝川水門の竣工を記念して水門そばに建設。その後、工事で一時的に撤去されてから、現在の場所に移設された昭和53年(1978)までの保管場所について記録が無い」との事。当時、芝中書道部顧問の山澄智英教諭は「地元のことを知る大切な資料。書道部の教材にしたい」と話し、部員の生徒たちも「碑文にはなじみのある地名もあった。先生と一緒に解読に挑みたい」と意気込みを語りました。地元の中学生達が奮闘した”謎”解きの結末やいかに・・・。
※一般公開はされていません
※一般公開はされていません
(「『芝川水門碑』拓本採り」報告/川口市立芝中学校書道部顧問 山澄智英より)
(平成28年3月13日産経新聞より)
芝川水門(領家5丁目)
■明治43年(1910)関東平野一円を巨大な湖に変えた大水害を契機として、国は首都・東 京を守るべく川口・岩淵間から荒川放水路(現在の荒川)を開削する一大プロジェクトを立案するなど、荒川水系全体にかかわる大改修に取組み始めます。 荒川支流の芝川も河川改修の対象となり、大正10年(1921)には門樋橋より東へ新水路開削工事が着工され、荒川放水路への付け替えが実施されます。同13年、この事業は南平柳村<みなみひらやなぎむら>(現在の南平地区)村長・田中德兵衞を代表とする功労者によって成し遂げられ、記念として芝川水門碑が建てられました。これによって芝川河口は下流の領家に移り147年ぶりに芝川に水門が設けられ、 従来の河口部は洪水時の排水路として残されました。
足立区都市農業公園(足立区鹿浜2-44-1)
■足立区都市農業公園は「自然と遊ぶ、自然に学ぶ、自然と共に生きる」をテーマに、園内の田んぼや畑では自然の仕組みを活かした無農薬無化学肥料での栽培を行い、自然教育普及やプログラム実施、収穫物の園内マルシェでの販売を行っています。
園内には約50種類290本余の桜が植えられ、中央芝生広場にはワシントン市ポトマック川河畔から里帰りした約30種類90本の、白や黄色、淡紅色や濃紅色など色とりどりの「五色桜」があります。春には「五色桜」、河川敷の3万5千球のチューリップ花壇、秋にはコスモス、冬には梅などの四季折々の花を楽しむことができます。
自然とふれあう機会として、水田や畑を利用した農業体験教室、ハーブ園を活用したハーブ教室や植物に関する講習会など、1年を通じ身近な自然や生き物について楽しみながら学ぶことができます。また園内には、小さなお子さまに大人気の大きな滑り台がある遊具広場などもあり、多岐にわたる施設があるので老若男女、だれでも楽しめる公園です。
園内には約50種類290本余の桜が植えられ、中央芝生広場にはワシントン市ポトマック川河畔から里帰りした約30種類90本の、白や黄色、淡紅色や濃紅色など色とりどりの「五色桜」があります。春には「五色桜」、河川敷の3万5千球のチューリップ花壇、秋にはコスモス、冬には梅などの四季折々の花を楽しむことができます。
自然とふれあう機会として、水田や畑を利用した農業体験教室、ハーブ園を活用したハーブ教室や植物に関する講習会など、1年を通じ身近な自然や生き物について楽しみながら学ぶことができます。また園内には、小さなお子さまに大人気の大きな滑り台がある遊具広場などもあり、多岐にわたる施設があるので老若男女、だれでも楽しめる公園です。
都立 舎人公園(足立区舎人公園1-1)
舎人公園は、東京にありながら広がる空と多様な自然が楽しめるくつろぎの空間です。みどりと水に恵まれた敷地は現在も造成が進み、最終的な計画では69,5ヘクタールに及ぶ予定です。現在はスポーツ施設、様々な広場、池などが整備された約61,2ヘクタールを開園しています。 (東京都公園協会HPより)
領家稲荷神社(領家2-14-15)
■室町時代に建てられ、花ノ井稲荷社といわれましたが、現在は近辺の32社を合祀した領家総鎮守。9月中旬の土・日は、大祭礼が行われ、笛や太鼓の音色の中で五穀豊穣を願う川口市無形民俗文化財「領家の囃子と神楽」が奉納されます。境内の神社会館では初午太鼓の練習も行われています。
(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
■領家の囃子と神楽
川口市指定 無形民俗文化財 年代:江戸時代
領家の総鎮守である稲荷神社と前耕地地区の三十番神社の祭礼に奉納される囃子と神楽です。伝承では、江戸葛西囃子の流れをくむ「きり囃子」が江戸時代後期に伝えられたものといわれています。 囃子は大太鼓1人、小太鼓2人、笛1人、鉦1人の五人囃子で行われ、神楽は囃子連中の行うもので「はやしかぐら(囃子神楽)」と呼ばれています。
※ 毎年行事開催日に併せ公開されています。日時および場所9月中旬から下旬領家稲荷神社
(川口市立文化財センターHPより)
■領家の囃子と神楽
川口市指定 無形民俗文化財 年代:江戸時代
領家の総鎮守である稲荷神社と前耕地地区の三十番神社の祭礼に奉納される囃子と神楽です。伝承では、江戸葛西囃子の流れをくむ「きり囃子」が江戸時代後期に伝えられたものといわれています。 囃子は大太鼓1人、小太鼓2人、笛1人、鉦1人の五人囃子で行われ、神楽は囃子連中の行うもので「はやしかぐら(囃子神楽)」と呼ばれています。
※ 毎年行事開催日に併せ公開されています。日時および場所9月中旬から下旬領家稲荷神社
(川口市立文化財センターHPより)
実相寺(領家2-14-11)
■境内はサクラの古木が枝を張り、満開の時はもちろん、本堂の屋根に花びらを落とす散り際も風情があります。梵鐘は江戸時代のもので、持国天・増長天・広目天・毘沙門天の四天王と十二支を配した珍しいもの。毎年11月第3日曜日には、きれいに飾った万灯行列が地域を繰り歩きます。そのほか、一般を対象にした写経会や仏教カレッジ、寺の日常を学ぶ子どもの泊まり会など、地域との結びつきを深めています。日蓮宗の寺院。南北朝時代の創研とのこと。道を隔てた墓苑には南平地区の教育者の祖・河原順信の遺徳碑が墓と並んであります。 (川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
■文明三年銘庚申待供養板碑
川口市指定 有形文化財 年代:室町時代
当板碑は、文明3年(1471)に製作された、我が国最古の庚申待供養結集板碑です。一部破損が見られるが、15世紀以降の関東における庚申信仰の定着、農村における講集団の結成がうかがえるなど、歴史資料として極めて価値の高い文化財です。
※ この文化財は、一般公開は行っておりません。 (川口市立文化財センターHPより)
■文明三年銘庚申待供養板碑
川口市指定 有形文化財 年代:室町時代
当板碑は、文明3年(1471)に製作された、我が国最古の庚申待供養結集板碑です。一部破損が見られるが、15世紀以降の関東における庚申信仰の定着、農村における講集団の結成がうかがえるなど、歴史資料として極めて価値の高い文化財です。
※ この文化財は、一般公開は行っておりません。 (川口市立文化財センターHPより)
光音寺(領家2ー7ー16)
■慈林薬師宝厳院、朝日薬林寺と並ぶ川口三薬師の一つです。本尊の薬師如来は、昔、古荒川の動木堂渕(ゆするぎどうぶち)から出現したので動木堂薬師ともいわれています。宗派は曹洞宗。 (川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
平柳蔵人居館跡(元郷4-12-6)
■室町時代に岩付城主太田資正(すけまさ)の家臣に平柳蔵人(ひらやなぎくらんど)という武士がいて、この一帯を支配していたとされます。その名から南平柳村と呼ばれるようになりますが、南平公民館元郷分館あたりに平柳蔵人の館があったと推測され、分館の前庭に石碑(川口市指定史跡)が建っています。三重の堀を構えた立派な館だったといわれます。
(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
■平柳蔵人居館跡)
川口市指定 史跡 年代:室町時代
『新編武蔵風土記稿』によれば、元郷村は平柳領15ヶ村の本村であり、古くは平柳村とも称しました。岩槻(附)城主太田氏の家臣に平柳蔵人という者がおり、この村に居住して周辺を領していたが、永禄7年(1564)、下総国鴻(国府)台の合戦の折に討ち死にしたとされています。その館は、南平公民館元町分館の辺りにあったと考えられています。平柳領の名は、彼が領した土地であったがために名づけられたとも言われています。
※ 見学にあたっては、マナーを守り、他の見学者の迷惑とならないようにお願いします。
(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
■平柳蔵人居館跡)
川口市指定 史跡 年代:室町時代
『新編武蔵風土記稿』によれば、元郷村は平柳領15ヶ村の本村であり、古くは平柳村とも称しました。岩槻(附)城主太田氏の家臣に平柳蔵人という者がおり、この村に居住して周辺を領していたが、永禄7年(1564)、下総国鴻(国府)台の合戦の折に討ち死にしたとされています。その館は、南平公民館元町分館の辺りにあったと考えられています。平柳領の名は、彼が領した土地であったがために名づけられたとも言われています。
※ 見学にあたっては、マナーを守り、他の見学者の迷惑とならないようにお願いします。
元郷氷川神社(元郷1-30-2)
■元郷の総鎮守。古く平柳蔵人が大宮氷川神社を分けいただいて祀ったと伝えられています。創建の頃は荒川のほとりに社があり、度重なる水難を避けて現在の地に移されたそうです。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、稲田媛命(いなだひめのみこと)とともに祀られています。石塔、石碑も多くみられ、長い間の地元での信仰がしのばれます。(川口市:我がまち川口・再発見~天気の良い日は川口散歩~より)
旧芝川の桜並木(門樋橋~榎木橋)
■「川口五色桜の研究路」とも言われる旧芝川沿いは、16種類150本の桜が立ち並ぶ知る人ぞ知る桜の見所です。国道122号線にかかる荒川大橋の袂から左に曲がると、間もなく門扉橋。その橋から見える右側の川沿いが、今回のお勧めの場所周辺は、昭和初期までは色とりどりの桜が堤を覆いました。4月から6月にかけての花の時期には、まるで五色の雲がたなびくように見えたそうで、やがて人々は「五色桜」と呼ぶようになりました。花の色は白や黄色、淡赤色などに彩られ、天気が良いとさながら五色の雲に包まれたような幻想的な景色が広がったと言います。
ところが、その五色桜は放水路の工事や公害等で痛めつけられ、やがて衰退。そうした様子を目にした地域の人々に、五色桜を偲ぶ気運が次第に高まり、旧芝川周辺の自然環境も取り戻そうと川口さくらクラブができました。クラブは桜の里親・桜守を募集。賛同した大勢の桜守は、一葉、白妙、寒山、楊貴妃など15種類150本の桜を植え、それぞれの木に、植樹した年月や花の種類などを彫ったネームプレートをつけました。
途中の仙元橋辺りからは水辺に降りることもできます。一帯は、国土交通省の「手づくり故郷賞」に選ばれています。 (マイシティジャーナルより)